世界中の記録を360度映像へ 未来の芸術活動のため京都発、横浜に進出したスタートアップ アクチュアル株式会社 辻 勇樹さん

ぐるりと360度を映し出すカメラを駆使して世の中を記録する。
そんなユニークなシステムを提供する事業を始めたアクチュアル株式会社の辻勇樹さん。社会人になった当初はプロダクトデザイナーだった彼が、なぜ映像を記録する仕事にたどり着いたかには紆余曲折がある。そして京都在住だった彼が、横浜に拠点を持って感じていることとは?「360度映像の社会実装を進めるのが私たちのミッション」。そう言い切るスタートアップ経営者に話を聞いた。

自分が携わった展覧会の空間をそのまま残したい

世界中の記録を360度映像へ 未来の芸術活動のため京都発、横浜に進出したスタートアップ アクチュアル株式会社 辻 勇樹さん

--大学や大学院でプロダクトデザインを学んだ辻さんは、卒業後、デザイン会社に就職。発展途上国の課題解決に向け、現地でデザインリサーチをするうちに、意識が大きく変化する出来事があった。

「バングラデシュに行ったとき、電気も水道もなく、家すら持たない現地の人々が、モバイル機器だけは必ず手にしていました。これからの時代、プロダクトよりも“情報”の可能性の方が遥かに大きいと実感させられました。色々考えた末、会社を辞めて、人と情報の関わり方を知り、語学力を身につけようと、ニューヨークの語学学校に入学しました。ここで現代アートと出会い、惹かれるようになりました」

--帰国後、辻さんはフリーのデザイナーとして活動しながら、アート関係の仕事にも携わっていく。

「自分が展示制作マネジメントを担当した展覧会が終わるときにふと、自分が作った空間がなくなってしまうことに悲しさを感じました。どうしたらこの空間を残せるだろうかと考えていた2017年、『ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展』を記録した360度映像の配信を見て、これならその場にいた人たちの空気感までも残せると考えました」

--そんなときにちょうど、アートイベントを支援していた公益財団法人西枝財団から「新しい文化事業を考えてほしい」という話があり、360度映像で記録する「ART360°(ART THREE SIXTY)」プロジェクトを提案した。提案の時点で、辻さんは360度映像を撮影した経験はなかったそうだ。

「終了すれば消えてしまう展覧会を360度映像として残すことが、未来の芸術活動において重要だと考えて提案しました。当初はスタートアップではなかったですね。自分たちができることを提案するわけではなくて、まず提案してからどうやって実現できるかを考えるスタンスです。これは今でも変わりません。自分たちが現状できることで提案の規模を狭めてしまうのではなく、イメージしたことは実現できるという前提のもと、いつも少し大きめのことを提案しています(笑)」

--ちょうど時期も味方した。

「360度カメラのプロ機が出たのがちょうどその頃で、すぐに注文して、事業で初めて撮影する2日前に現物が届きました。たぶん、日本でも10番目以内くらいに購入したと思います。それまでは皆さん、GoPro(ゴープロ)(※1)や普通の一眼レフカメラを複数台組み合わせて撮影していましたが、自分が一人で同じ撮影をするとしたらハードルが高かったでしょうね」

※1…超小型である点が特徴的なアクションカメラ。手のひらサイズのボディながら、4K動画など高画質で映像を撮影できる。

会社経営の大変さを痛感したのは、一人目を雇ったとき

世界中の記録を360度映像へ 未来の芸術活動のため京都発、横浜に進出したスタートアップ アクチュアル株式会社 辻 勇樹さん

--プロジェクトを確実に動かすために、2018年11月に会社を登記。
法人設立時の段階で融資も受けた。

「日本政策金融公庫(※2)、信用金庫など合わせて1千万円を借りました。それまでデザイン事業での売上があったので、わりとスムーズに融資していただけました」

--このような成り行きで会社を設立したので、その時点では経営に関する知識はほとんど無かったという。

「最初は労務や会計、経理など基本的なことは全部自分でやりました。設立してから2年間くらいで、税理士に教えていただきながら基礎的なことを覚えていきました。会社を経営するのは大変だと一番感じたのは、1人目を雇うときです。それまで自分の給料だけで良かったのが、必要な額が単純に倍になり、その分の売上が必要になるので」

--人材は知人をたどって採用していった。撮影は辻さん自身でできても、編集には専門家が必要だった。それまで依頼していたフリーのカメラマンを誘ったのかと思いきや、そうではなかった。

「フリーランスと会社に入る人では基本的にマインドセットが違います。フリーランスは会社の事業目標を達成しようというよりは、それぞれの世界観があり、その実現を重視している方が多い印象です。小さい会社では一人の振る舞いや動機が事業全体に影響を及ぼすので、熱量や事業共感性の高い人を入れる必要があります。ただ、その当時のメンバーは、事業を拡張するタイミングで、ほぼ入れ替わりました。採用にかけられる時間にもそのタイミングで出会える人にも限りがあるので、採用は不確実なものだと今でも感じています」

※2…政府全額出資の金融機関。国の政策のもと、創業支援や中小企業の事業支援などを重点的に行なっている。創業時から利用でき、低金利で融資を受けられる。

360度映像の社会実装に向けてスタートアップの道を選択

世界中の記録を360度映像へ 未来の芸術活動のため京都発、横浜に進出したスタートアップ アクチュアル株式会社 辻 勇樹さん

--360度カメラで展覧会を記録する事業は軌道に乗っていった。

「展覧会の記録は西枝財団の公益事業として運営されています。360度映像は新しい技術で当時はほとんど認知されていなかったので、最初は『公益事業として無償で撮影させてください』と説明しても断られることが多かったですね。その中でもいくつかの美術館やアーティストの方々が共感してくださることで少しずつ進んでいき、今では断られることは少なくなってきました。まず何より、作家や学芸員の方が記録として残せることを喜んでくれますし、美術館が広報用にSNSなどで使っていただくこともあります」

--この段階では360度映像の撮影は公益事業が中心だった。だがそのうちに、事業は新たな局面を迎える。

「徐々に展覧会を記録するためのシステムを内製化するようになりました。当初は事業化の可能性があるかどうかは深く考えていませんでしたね。展示会の記録をよりよく見せるための方法を模索する中で、開発に至ったという流れです。ところが、一定以上の規模になってくると、開発コストを自分たちで賄えない状況になります。そこで初めてスタートアップとして拡大していくのか?という問いを突き付けられました。

自分たちの資金の範囲で開発を続けるのか、資金を調達して先行投資をしてその先に新たなマーケットを生み出すのか。我々がこのままやっていても全国の展覧会を残すキャパシティはない。皆さんが自分で撮影できるのであれば、たくさんの展覧会が残せる。だったら編集機能の付いたクラウドサービスを作って提供しようということになりました。ちょうどコロナの補助金が出ていたタイミングだったのも大きかったです。補助金を利用してシステムを開発し、2023年5月に『WHERENESS(ウェアネス)』という名称でリリースしました」

--アート関係の業界だけではなく、他のジャンルの開拓が必須と考えている。

「我々のミッションは360度映像の社会実装を進めることです。最初は幅広い領域で可能性を探っていましたが、現在はインバウンド向けEコマースやモビリティ試乗体験、人材採用といった、実際に現地を訪れなければ意思決定が難しい領域に絞ってアプローチしています。

360度は、すべて見せることで信頼関係を構築に寄与することから、今後のオンラインコミュニケーションにおける一つのインフラになりうるものだと信じていますが、まだ広く認知されているわけではありません。だから、お客様から通常の動画作成の依頼があったとしても、そのお題に対して『360度映像を使ってみませんか?』と提案することで仕事につなげています」

関東の拠点として横浜に進出

世界中の記録を360度映像へ 未来の芸術活動のため京都発、横浜に進出したスタートアップ アクチュアル株式会社 辻 勇樹さん

--事業の拡大に伴って横浜へ進出した。大学院時代、慶應義塾大学藤沢キャンパスに通っていたことで神奈川県には親近感があった。

「京都で人材採用するのは難しいと感じ、関東に拠点を持つことにしました。京都は先端的な技術を求めるよりは、既存の文化や品質をより深めていく土地柄。横浜に来て、人口の圧倒的な多さが作るダイナミズムや、行政がやることの規模感の大きさを感じています。スタートアップの人材採用という観点でもメリットが大きいです」

--YOXO BOXにはインターネット検索でたどり着いたという。YOXOマネジメントプログラム(※3)2022にも参加した。

「関東に出ようと思ったその日に『横浜 スタートアップ』とネット検索でYOXO BOXを見つけて、すぐに問い合わせをして、翌週には横浜に来ていました(笑)。YOXO BOX OFFICEに横浜支店を置いていますが、運営側の方々とのコミュニケーションに助けられています。『撮影したいので場所を探している』、『実証実験したくてこういう企業とつながりたい』、『こういうことやってみたいけどどう思われますか』などと、声をかけるとすぐにフィードバックを受けられるのが大きいですね。

私たちは資金調達をするのが初めてだったので、YOXOマネジメントプログラムで様々な方の講演を聞き、出資する側はどういうマインドセットでいるのか、何を大事にされているのか、スタートアップの先輩は、どういう変遷をたどってきたのかなど生の声を聞くことができて勉強になりました」

--横浜に拠点を持って、人材採用も順調に進んでいるようだ。一般の求人媒体は使っていないという。

「一般の求人媒体を使っても、そこに我々が必要とする人材はいないとそれまでの経験でわかっていました。大学院時代の知り合いに『こういう人材を探しているのだけどいない?』と聞いて紹介してもらうなど、基本はリファラル(※4)とヘッドハンティングです。オンライン上で見つけて、転職に意欲があるかどうかわからない方にアプローチすることもあります。

これまで人材採用には苦労してきて、求人手段や条件の提示の仕方、順序を間違えていたと気づきました。求人を出すとどうしても条件に目がいってしまう。それよりは事業に共感してもらえるかが重要なので、まず事業の話をしています。条件はその後です」

※3…IPOやM&Aを具体的に目指すスタートアップを対象とした、コーポレートガバナンス等に関する講座形式のプログラム。
※4…社員からの紹介による採用。

世の中にないものを作るには「フラットなディスカッション」が重要

世界中の記録を360度映像へ 未来の芸術活動のため京都発、横浜に進出したスタートアップ アクチュアル株式会社 辻 勇樹さん

--WHERENESSの事業が始まり、スタートアップとしてはまさにスタートを切ったところ。経営者として何を重視しているのだろうか。

「私は世界中の記録の3割が360度映像になったときが事業の成功だと考えています。世の中にないものを作ろうとしているので、まずは自分たちが知っていることがすべてと思わないこと。その認識を持った上で、フラットなディスカッションができるようにすることですね。意見が否定されたとしても、決して個人が否定されたわけではないのですが、伝わり方によってそこが紐づいてしまうことが多い。フラットなディスカッションができるような意識を全員が持つことが重要だと思っていますので、従業員にも伝えています」

--これから起業を考えている人たちへのメッセージは…。

「まだ何も成功していないので、自分自身にも言い聞かせるつもりで話します。飲み会などで、もっとこうなったらいいのに…と、よく会社や社会が悪いって話になりますよね。だけど本当にやる人は、文句を言っている時間も惜しんで解決法を考えたり、行動を起こしたりしていると思います。起業家のコミュニティで話していると、自分がコミットする課題、生きているうちにやり切ることを決めていて、その中で人と社会を巻き込んで責任を取るという覚悟を感じます。そういう覚悟で臨んで欲しいし、私も臨みたいと思っています」

【プロフィール】
辻 勇樹氏
アクチュアル株式会社 代表取締役

1986年生まれ、京都府出身。2009年、京都精華大学卒業。2011年、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科エクス・デザインプログラム修了。
2011年、株式会社グランマ入社。2015年より京都を拠点に活動する。2018年11月、アクチュアル株式会社 設立。

【取材】
2023年9月
インタビュアー/古沢 保
執筆/古沢 保
編集/馬場郁夫・桑原美紀(株式会社ウィルパートナーズ)