東工大発ベンチャー ステレオカメラで世界中の交通事故ゼロを目指す ITD Lab株式会社 實吉敬二さん

人間の目と同様に2つのカメラを持つことで事物の輪郭と距離感を正確に把握するステレオカメラ。自動車の自動運転や運転支援などに活用される、近年最注目のテクノロジーである。

ITD Lab株式会社はこのステレオカメラを開発して自動車や電車、船舶、車椅子、配送ロボット、フォークリフトなどに搭載してもらい、衝突防止・転落防止・危険回避などに役立てて、世界中から衝突事故などをゼロにすることを目標にしている。
東京工業大学発のベンチャーとして、学内での研究を活用して起業した、ステレオカメラの第一人者である實吉敬二さんに話を聞いた。

世界で年間120万人もいる交通事故死をゼロにしたい

東工大発ベンチャー ステレオカメラで世界中の交通事故ゼロを目指す ITD Lab株式会社 實吉敬二さん

--實吉さんは研究者としてこれまで、企業→大学→スタートアップと様々な形態を経験してきている。その中でステレオカメラとの出会いは偶然だった。

「大学時代の研究テーマはまったく違って、原子核を研究していました。真理の探究に興味があったんですね。博士課程を修了した後も研究を続けていましたが、富士重工業株式会社(現:株式会社SUBARU)に新しい研究所ができるという話があって就職し、エンジンの燃焼研究に取り組みました。エンジンの中のガスの動きを撮影しても二次元でしかわからず、立体で見たいと考えて自分でステレオカメラを作ったところ、いい画像が得られたんです。アメリカの学会で発表して賞もいただきました。

そうしたら社内で『ぶつからない車』を夢見ている役員の方が『車に乗せたら衝突を防止できるよね』と興味を持ってくださって、そのまま研究を続けることになりました。研究所はできたばかりで、わりと自由に研究ができました。当時の所長が『大きな研究には時間がかかるもの。外圧は全部俺が受けるから、お前は好きにやっていい』と言ってくれたことには本当に感謝しています」

--それが1980年代後半から90年代半ばのこと。当時はトヨタや日産、三菱など他の大手自動車メーカーもステレオカメラを開発していた。そんな中で實吉さんが取り組んでいたSUBARUの研究は業界でも存在感を示していた。

「98年には製品として結実しました。ただ、当時は『自動車は人間が運転をしなければならない』というウィーン道路交通条約があり、自動運転という発想は世の中にはなかったので、障害物など危険を察知すると警報が鳴るものに留まりました。それでは商品としての価値が不十分で全然売れませんでした。ちょうど所長も交代したので、私も一段落と思って大学に戻りました」

--東京工業大学に戻った實吉さんは、准教授として学生たちを指導しながら、独自でステレオカメラの研究を続けた。

「SUBARUのステレオカメラ搭載車が当時は売れませんでしたし、せっかく販売できるまで研究したのに、ステレオカメラの技術が広まっていかないことを残念に感じました。今、全世界では1年間に120万人が交通事故で亡くなっています。ステレオカメラが普及すればその被害を減らせると確信していたので、それを実現するためにも研究を続けました。

最初の2~3年は会社に残った研究仲間も私の研究室に来て、一緒に研究したりしていました。その後、2008年にアイサイトとして発表されました。自分が関わった技術が世に出て役に立ったのは嬉しかったです」

--2016年にはウィーン道路交通条約が改正され、自動運転も可能になった。實吉さんが開発するステレオカメラは進化を遂げ、1秒間60枚の画像で判断して自分の経路を決めるなど、アイサイトでは実現できなかった速度と精度を実現していた。

「SUBARUの技術は特許で守られていて、ノウハウは外には出ない。でも、せっかく作ったのだから多くの人に使ってもらいたい。それには、自分で作って販売するしかないと思い、起業を決断しました」

順調に集まった資金、しかし投資打ち切りに…

東工大発ベンチャー ステレオカメラで世界中の交通事故ゼロを目指す ITD Lab株式会社 實吉敬二さん

--2016年、大学定年の約1年前にITD Labを設立。研究一筋で邁進してきた實吉さんにとって、会社経営は初めての連続であった。

「ちょうどその頃、80年代に在籍していた研究室の学生が『このカメラはすごいから会社を作りましょう』と持ちかけてきて、別の会社で社長をしていた紫垣卓男氏(現在ITD Lab CEO)も紹介してくれました。会社の登記や資金集めなどは経営に詳しい紫垣さんに任せられて非常に助かりました」

--最も苦労しそうな資金繰りも、最初から融資などは当てにせず、第三者割当増資(※1)により2017~19年の3年間で総額6.3億円を調達した。

「融資など受けなくても、すぐに自立できると思ったんですよね。出資してくれたのはベンチャーキャピタルやステレオカメラを必要とするモビリティの企業など。アイサイトを作ったという実績も大きくて、将来性があると認めてもらえたのだと思います」

--だが、なかなか業績は伸びなかった。2019年には遂に、最大の投資者であるベンチャーキャピタルから「これ以上は投資できない」と告げられてしまった。

「最初から資金集めがうまく行ったので、いいものを開発すればそれでいいと、謙虚さが足りなかったと思います。そこで会社の立て直しが必要になり、最大で20名ほどにまで増えた社員も半分に縮小し、再スタートしました。

ステレオカメラがまだ商品として熟しておらず、世の中に認知されていないのに商品化したことが、うまくいかなかった一つの原因でした。買う方も何に使うのかよくわかりませんから。

そこで2019年以降は受託研究を増やして、実際にステレオカメラを必要とするモビリティの企業に『一緒に開発していきましょう』と持ちかける方法に方向転換しました。それでも数年は赤字が続きましたが、2023年に黒字になり、ようやくうまく行き始めたかなというところです。我々のステレオカメラを搭載して量産していただき、ライセンスビジネスにしていければと考えています」

※1…特定の第三者を対象に有償で新株を発行することを指す。

東京工業大学内のベンチャー支援施設に入居。横浜市ともつながり実証実験を実施

東工大発ベンチャー ステレオカメラで世界中の交通事故ゼロを目指す ITD Lab株式会社 實吉敬二さん
東工大横浜ベンチャープラザ内にあるITD Lab

--会社の拠点は東工大横浜ベンチャープラザ(YVP)に置いた。学内にこうした設備が整っていることは、大学発ベンチャーにとって起業の後押しになる。

「もともと東工大は産学連携に力を入れていて、その担当者と話しているうちに、YVPにまだ空きがあるというので入居することにしました。まず家賃が高くないのが助かりますし、自分が10代から縁のある学内ということで居心地はいいです」

--そんな中でも特に助かっているのが、IM(インキュベーションマネージャー※2)による支援。YVPのIMは中小機構(独立行政法人中小企業基盤整備機構)から派遣された担当者だという。

「とても熱心な方で、資金や特許の相談にも乗っていただいています。ステレオカメラを搭載して、自律走行と障害物回避の実証実験を近くにある玄海田公園で実施したいと考えたのですが、IMに相談したところ、横浜市に連絡を取って許可取りもしてくれました。もし何の伝手もなくいきなりお願いしても、スムーズには運ばなかったはずで、ここに入居しなければ実験できなかったと思います。

実験は2022年の6月から始めて、現在2期目です。公園に一般の人が遊びに来ている状況で、全方位のステレオカメラを搭載した電動車椅子を走行させます。面白がって手を出す子供がいたりしますが、それを察知すると止まったり、方向転換して回避したりする。それで360度回ってしまってもコースを見失わず、また進行方向を把握して走り出す、という実験結果を得られていて、こうした結果は商談をする際にも大きな威力を発揮すると思います。実証実験について横浜市がプレスリリースを配信してくれたおかげで、新聞などが取材に来て記事化もされました」

東工大発ベンチャー ステレオカメラで世界中の交通事故ゼロを目指す ITD Lab株式会社 實吉敬二さん
玄海田公園での実証実験の様子

--この実証実験以降も横浜市の支援を活用し、「横浜ベンチャーピッチ」などにも参加するようになった。

「2023年9月にYOXO BOXで開催された横浜ベンチャーピッチにも参加しました。ピッチに出ることはチャンスにつながるし、自分のセールスポイントを見つめ直すことにもなります。2024年2月のYOXO FESTIVAL(※3)に出ることをきっかけにデモ用の車やコースも作りました。ここに参加したことがきっかけで、鉄道と船舶関係の企業からお声がけいただき、商談につながっています」

東工大発ベンチャー ステレオカメラで世界中の交通事故ゼロを目指す ITD Lab株式会社 實吉敬二さん
360°全方位カメラを搭載し、障害物を避けながら小さい街を自律走行する「街中デリボ」(YOXO FESTIVAL2024)

「総じて感じるのは横浜市の方は温かいなということ。YOXO BOXの方も玄海田公園の方も大変親身に対応してくれて、起業する人を応援しようという空気が伝わってきます。今後は公道で20㎞走行する実験を目指しているので、また相談したいと考えています」

※2…独立・起業を目指す人や起業して間もない事業者に、事業の知識やノウハウ、経営資源など不足するものを幅広く速やかに補い、時には事業以外についても相談相手となり、事業の達成へ導く存在。
※3…イノベーターやクリエーターが未来に向けた新しいアイデアや技術を持ち寄り、みなとみらい地区などで開催したイベント。領域を越えて交流することでひらめきを得ることなどを目的としており、2025年も開催予定。

起業に必要なのは、何をしたいのか志を持つこと

東工大発ベンチャー ステレオカメラで世界中の交通事故ゼロを目指す ITD Lab株式会社 實吉敬二さん

--これまで様々な形態で研究を続けてきたが、それぞれのメリット・デメリットをどう感じているのだろう?

「企業にいたときは、予算は潤沢にありましたね。ただ当然ですが、儲けが無いと立場が辛くなってくるというプレッシャーは相当ありました。私の場合は先ほど話した通り、所長がだいぶ守ってくれましたが、それでもプレッシャーは感じていました。一方で、私自身にも人の役に立つ製品を作りたいという思いが生まれました。大学時代はとにかく真理の探究が一番でしたが、そこが就職して勉強になったところで、人生感が変わりましたね。

企業を辞めて大学に戻ったときは、そのプレッシャーがないので、自由でのんびりし過ぎてしまうくらいでした。その分、360度全方位を監視できるステレオカメラなど、実用性があるかわからないものを、どこに売れるのかも考えずに作れる自由さがありました。研究費用も企業からの奨学金などで賄えたので環境としては非常に恵まれていました。

ベンチャーになった今は、自分で稼がなくてはいけないという点が以前との最大の違いです。突飛で新しい研究はできなくなり、世の中に受け入れられるものをきちんと作ることが優先です。研究だけしていればいいという状況ではなくなりましたが、その努力が事故を減らすことにつながっていくと考えればやりがいがあります。研究成果を社会実装するには、起業は有効な手段だと思います」

--研究者だけでなく、経営者としての苦楽も味わっているが、そんな實吉さんが会社運営について大切にしていることは?

「一番大きいのは、人間関係でしょうね。特に小さい会社はそうで、お互いのいいところを引っ張り出し合いながらやるのは難しいですね。研究畑は個性的な人が多いので。時には折れることも必要で、私は折れてばっかりいます(笑)。けれどもそうやって一つのものをみんなで作る楽しさはあって、一人で研究していたときとは違う味わいがあります。

今後の目標は、ステレオカメラの普及と世界中から事故をなくすこと、これは変わりません。多くのモビリティにステレオカメラが搭載されて、事故で悲しむ人がゼロに近づくことが目標です。そのためにはまず、量産を実現して価格を下げていくことなど、しなければならないことはたくさんあります。10年後になるか20年後になるか、それを私が実現できるかもわかりませんが、きっかけだけでも作れたらと思います」

--最後に實吉さんのように、研究で培った技術で起業を目指す人にメッセージをお願いしよう。

「『何をやりたいか』がないとブレてしまうと思います。例えばAIがブームになると、AIを使って何か起業できないかと考える人はたくさんいますが、特長がないと大抵1年もするといなくなってしまいます。私が交通事故をゼロにしたいと思うように、『これがやりたくて、そのためにAIが必要だ』となれば、きっと特長も出るし、長続きするのではないでしょうか。私もまだまだ始めたばかりなので大きなことは言えませんが、これという志を持って事業を始めていただけたらと思います」

【プロフィール】
實吉敬二氏
ITD Lab株式会社代表取締役会長CTO
1951年11月27日生まれ、神奈川県出身。
1981年、東京工業大学 理工学研究科応用物理学 博士課程修了。
1988~98年、富士重工業株式会社(現:株式会社SUBARU)研究主査。
1998-2017年、東京工業大学 放射線総合センター准教授。
2016年、ITD Lab株式会社 創業。

【取材】
インタビュアー/古沢保
執筆/古沢保
編集/馬場郁夫・桑原美紀(株式会社ウィルパートナーズ)