「Never give up」のマインドで完全個室型ベビーケアルームを横浜から世界へ Trim株式会社 長谷川裕介さん

授乳室やおむつ交換台の場所を無料検索できる地図アプリ「Baby map」や、完全個室のベビーケアルーム「mamaro(ママロ)」を手掛けるTrim株式会社。代表取締役の長谷川裕介さんは、広告業界から医療系ベンチャーへ転職後、自ら起業の道を選択した。「Never give up(決して諦めない)」の精神で事業を成長させた長谷川さんの軌跡をたどる。

「なぜ自分で起業しないの」経営者の言葉で起業を決断

「Never give up」のマインドで完全個室型ベビーケアルームを横浜から世界へ Trim株式会社 長谷川裕介さん

--長谷川さんは、グラフィックデザイナーの父の影響を受け、新卒で大手広告代理店に入社した。コピーライターやクリエイティブディレクターとして広告賞を受賞するも、母親の死をきっかけに「より直接的に人の役に立ちたい」と考え、医療系ベンチャーへ転職した。

「当時は、広告を通じて間接的に人に影響を与えていましたが、もっと直接的に人の役に立つ仕事がしたいと思うようになりました」

--その会社でCIO(最高情報責任者)や新規事業責任者を務める中で、「Baby map」の前身となる地図アプリ「ベビ☆マ」を事業化した。子育て中の親が、授乳室やおむつ交換台を簡単に見つけられるようにするためのサービスである。

「事業化はしたものの、当時の会社が医療に特化する方針を決定し、『ベビ☆マ』の事業継続が難しくなりました。必要としている親がたくさんいるのに、このまま終わらせるわけにはいかないと思い、『それならば自分で存続させよう』と思い立ったのが起業したきっかけです」

--起業を決意する前、長谷川さんは「ベビ☆マ」の継承先を探していたが、なかなか引き受け手が見つからなかった。そんな中、ある経営者との会話が大きな決断を後押しする。

「『やりたいことがある、事業方針も決まっている、ユーザーもいるのに、なぜ自分で起業しないの』と言われました。その言葉が心に刺さりましたね。医療系ベンチャーで新規事業に挑んでいましたが、リアルな経営者との覚悟の違いを肌で感じていて、自分で起業するという発想はありませんでした。その言葉で改めて決意を固め、2、3カ月後の2015年11月に開業しました」

--長谷川さんが横浜で起業したのは、両親にゆかりがあり、自身も生まれ育った街だからだ。特に地元らしさが感じられる中区にオフィスを構えた。

「例えるなら、東京はニューヨーク、横浜はカリフォルニア。その“緩さ”に魅力を感じます。Trimという社名は、船がバランスを取りながら進むことや、サーフィンで波に乗る心地よい状態を表しています。そのスタンスで事業に臨もうというのと、子育てが女性に偏りがちなところもバランスをとっていきたいと考え、企業ロゴも“やじろべえ”のデザインにしました」

新たな収益モデルを模索し「mamaro」の開発をスタート、資金調達に奔走

「Never give up」のマインドで完全個室型ベビーケアルームを横浜から世界へ Trim株式会社 長谷川裕介さん

--起業することを決意したものの、事業を軌道に乗せるには多くの試行錯誤を重ねることとなった。まず、「ベビ☆マ」の収益化に大きな課題があった。

「『子育て世代からお金を取りたくない』と考え、アプリの収益は主に課金や広告掲載料でまかなっていました。しかし、外出時に利用されるアプリのため、デイリーアクティブユーザー数が少なく、広告出稿のハードルが高かったのです」

--そこで、新たな収益モデルを模索する中で、ある助言が大きな気づきをもたらした。

「ある方に『あなたは世界で一番授乳室の場所を知っている。ならば、不足している場所へのアプローチを考えたらいい』と言われました。その言葉にハッとしました。すぐに、商業施設や公共施設等に授乳室設置のアイデアを持ち込みましたが、初めは『大手企業から似たような案が出ている』と採用されませんでした。

ただ、ある提案先から『コスト面でもコンパクトな授乳室なら導入しやすい』という意見をいただきました。さらに、ショッピングモールなどでは頻繁にレイアウト変更が行われるため、授乳スペースには柔軟性が求められていることもわかりました。そこで、『移動可能なブース型が最適ではないか』と考え、『mamaro』の開発が本格的にスタートしました。

また、アプリを通じて母親たちの声を分析すると、多くの方がカーテン式の授乳室に不安を感じていることが明らかになりました。そこで、完全個室型の授乳室を提案したところ、皆さんの反応が良く、事業化に踏み切りました」

--開発で大切にしたのは男女を問わず利用できること。

「当時は『授乳室』と言えばピンクが主流でしたが、男性の育児参加が増えている中で、誰でも使いやすいユニセックスなデザインにしました」

--長谷川さんは、わずか30万円の資本金でスタート。しかし、「mamaro」の開発・製造、従業員の雇用には多額の資金が必要だった。

「開業翌月の2015年12月には、スタートアップの登竜門であるアクセラレータープログラムに採択され、最初の資金調達を実現しました。翌年1月には『横浜ビジネスグランプリ2016』(※1)で最優秀賞に選ばれ、同年の『横浜ベンチャーピッチ』(※2)にも登壇しました。どのピッチイベントにも『絶対に結果を出して資金を調達する。そうでなければTrimは終わる』という決意で挑んでいました」

--「横浜ビジネスグランプリ2016」の最優秀賞を受賞したことで、無事に資金調達を果たす。ただ、その成功を確信し過ぎていたという。

「多くの方に注目していただき、このままユニコーン企業になれると勘違いしてしまいました(笑)。準備期間が短かったとはいえ、起業前に最初の顧客やネットワークを築いておくべきだったと痛感しています」

--一方で、長谷川さんのプレゼンテーションを聞いた人物が「ベビ☆マ」や「mamaro」の商標を取得し、一時的に名称が使えなくなったこともあった。すでに解決済みだが、本業以外で多大なエネルギーを消費したことを反省している。

「起業家の方々には、世間に事業を発表する前に商標の出願だけは済ませておくよう勧めます。私は広告代理店時代、クライアントに商標を取るよう常に促していたのに、自分のケースでは足元をすくわれました」

※1…公益財団法人横浜企業経営支援財団主催、横浜市経済局共催。新たな価値を創造するような製品・サービスの提供を目指す起業家やスタートアップを発掘するため、横浜での起業や新規事業展開に挑戦するビジネスプランを全国から募集し審査するビジネスプランコンテスト。
※2…横浜市経済局が実施するピッチイベント。資金調達や事業連携等のビジネスパートナー発掘に向けて、スタートアップが、ベンチャーキャピタルや金融機関、大企業等に対して自社の事業計画やビジネスモデルをプレゼンする。

資金ショートの危機に直面し、資本政策とキャッシュフロー管理の重要性を痛感

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--起業後の資金調達では、どのステージにおいても戦略的な資本政策が求められる。特に最初の資金調達では、アイデアの価値が市場でどのように評価されるか不透明な状態であり、バリュエーション(企業価値評価)の設定には慎重さが必要だ。

「バリュエーションを高く設定し過ぎると、投資家の想定を超えてしまい、資金調達が難しくなります。一方で、低く設定し過ぎると投資家へのリターンを優先する形になり、後々の資金調達に苦労することになります。起業家は往々にして、必要な資金額から逆算してバリュエーションを決めがちですが、その時点での調達が成功しても、次のラウンドで企業価値が下がる可能性があることを考慮する必要があります。だからこそ、資本政策は慎重に検討してほしいです」

--資本政策を考える際は、同じような事業を展開する起業家や、資金調達の経験が豊富な人に相談することが重要だという。

「他の起業家の実体験から学べることは多いです。特に、自分と近い業界や成長フェーズの企業がどのように資本政策を設計したのかを知ることで、より現実的な戦略を立てることができます」

--資本政策の判断を誤ると、事業の継続そのものが危ぶまれる事態にもなりかねない。

「私は少額の資金調達を何度も繰り返してしまい、そのたびに事業の手を止め、資金確保に奔走せざるを得ませんでした。その結果、従業員に不安を与えてしまい、組織の信頼を損ねる要因にもなりました。そして、複数回の資金調達を経て従業員を増やし、売上高を大幅に伸ばそうとしたタイミングで、次の資金調達に失敗してしまいました。利益はJカーブの谷を超えて成長していたものの、資金ショートのタイムリミットが見えてきてしまったのです」

--このとき、長谷川さんはまず自らの給与を止める決断をした。そして、資金難の現実を社員に伝えなければならなかった。

「全員をTrimに残そうと死力を尽くしましたが、当然ながら私への不信感は高まり、役職者を中心に離職していきました。起業後の10年間で最も辛かった出来事でした」

--この苦い経験を経て、事業の成長ステージにおいて、最も重要視してきたのはキャッシュフローの管理だった。起業初期のシード段階では、「ベビ☆マ」のアピールとPL(損益計算書)の実績をもとに支援を受けることができた。しかし、実際に事業を運営する中で、キャッシュ(現金)の流れをKPI(重要業績評価指標)として管理することの重要性を痛感したという。

「製品が完成しても、すぐにキャッシュが回収できるわけではありません。当初の『mamaro』はレンタルを主軸としたビジネスモデルだったため、契約が取れて売上が立っても、実際にキャッシュが手元に入るまでに時間がかかりました。その結果、想定以上に資金繰りが厳しくなり、キャッシュフロー管理の重要性を改めて実感しました。どれだけ売上があっても、現金が不足すれば事業は続けられません。だからこそ、キャッシュフローそのものをKPIとして管理することが、事業の安定運営には不可欠だと考えました」

--長谷川さんがビジネスにおいて多大な影響を受けているのは、キャピタルメディカ・ベンチャーズ代表取締役の青木武士さん。青木さんはTrimのリード投資家で社外取締役も務めている。青木さんからは投資を受けた当初から厳しい指摘が続き、どのように関係を築けばよいのか戸惑っていた。

「初めは『どんな営業しているの?』『なぜこの数字なの?』と厳しく詰められるばかりで、『この人の投資を受けなければよかった……』と思ったほどです(笑)」

--しかし、その状況を変えようと、長谷川さんは青木さんをキャンプに誘い本音で語り合い、毎週の電話で30分のコーチングをしてもらう約束を取り付け信頼を深めた。

「青木さんが強く意見していたのは、投資家目線で成長を願っていたためでした。この日を境に、重要な判断をする際や困ったことがあればすぐに青木さんに相談するようになりました。プライベートでも気軽に連絡を取っています。経営者は従業員や投資家に対して構えてしまいがちですが、私はリード投資家を信頼し、頼れる関係を築けたことは非常に幸運でした」

世界展開する親会社と共に「mamaro」の普及を加速したい

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--2024年11月、Trim株式会社はモバイルバッテリーのシェアリングサービス「ChargeSPOT(チャージスポット)」を手掛ける株式会社INFORICHの子会社となった。起業当初、長谷川さんはIPOを目指していたが、青木さんとのディスカッションの中で多様なM&Aの形式やスモールIPOのリスクを知り、「成長の選択肢は一つではない」という考えに至ったという。

「黒字化を達成し、次のステージを見据える中で株式会社INFORICHに出会いました。彼らはすでに海外進出を果たし、モバイル充電で世界中の人を助けています。両社の製品は設置場所の親和性が非常に高く、このアセットやシナジーを活かせば、『mamaro』も最速でグローバル展開できると判断し、グループインを決めました」

--実際に、ヨーロッパを中心に「mamaro」への問い合わせが増えている。これまで人前でも気にせず授乳する文化が主流だった地域でも、最近の若い母親の間では抵抗感が広がりつつあり、日本よりも授乳室の設置率が低いことが課題となっているという。特に、来日した外国人が「mamaro」を知り、帰国後に問い合わせてくるケースが増えているそうだ。

「今後も国内外で広く普及させたいです。私たちのミッションは『よりよい子育て環境を提供する』ことなので、長期的には授乳室やベビーケアルームにとどまらず、よりクリティカルな領域にも事業を展開していくつもりです」

--Trimでは、事業運営の指針として6つの行動理念を掲げている。その中でも長谷川さんが特に大切にしているのは「Never give up(決して諦めない)」という言葉だ。

「いつ破綻してもおかしくない時期を乗り越え、2期連続で1億を超える黒字を達成できるようになったのも諦めなかったからです。この成長の土台を活かしながら、さらに挑戦を続けていきたいと思います」

--横浜市のスタートアップ支援拠点「YOXO BOX」でメンターもしている長谷川さんから、最後に起業家へのメッセージをお願いしよう

「若手の起業家と話していると、皆さんとても真面目で、誠実に取り組んでいることが伝わってきます。ただ、その真面目さが時に遠慮につながり、自分のやりたいことを思い切って打ち出せていないと感じることがあります。起業には、アイデアや努力だけでなく、自分のビジョンを実現するための“したたかさ”も必要です。自分の考えをしっかりと発信し、遠慮せずに周囲を巻き込んでいくことが大切だと思います。

また、『起業しないと後悔する』と言う先輩経営者もいますが、それは成功したからこそ言えることです。実際には、途中で挫折したり、撤退を余儀なくされたりした人もたくさんいます。私自身も、事業がうまくいかずに従業員を守れなかったという、苦しい経験をしました。だからこそ、安易に『ぜひ起業して頑張ってください』と背中を押すことはできません。自分の事業が社会に必要とされているのか、一度立ち止まって考えることも大切です。

とはいえ、会社員として働いていたら実現できない夢があり、それを叶えるために起業を決意したのなら、自分が先頭に立って行動し、積極的にチャンスをつかみにいくべきです。私自身も、Trimを成長させるために、投資家をはじめ、多くの人に助けを求めてきました。起業は決して簡単な道ではありませんが、一度走り出したら迷わず前に進み、周囲の力を借りながら諦めずに挑戦を続けてほしいと思います」

【プロフィール】
長谷川裕介氏
Trim株式会社 代表取締役

1983年生まれ、神奈川県横浜市出身。大学卒業後、広告代理店に約10年間勤務、医療系ベンチャー企業でCIO(最高情報責任者)と新規事業責任者を経験した後、2015年11月にTrim株式会社を設立。2017年7月よりベビーケアルームmamaro(ママロ)のサービスを開始。2024年株式会社INFORICHとM&A成立、グループイン。

【取材】
2025年2月
インタビュアー・執筆/林壮也
編集/辺見香織・馬場郁夫(株式会社ウィルパートナーズ)