もともと勉強は得意ではなかった。起業の意志もなかった。しかし、とにかく実験が大好きで、いわく「人と出会う力だけはあった」――。
2014年に横浜国立大学発のベンチャー企業としてスタート。次世代を担う農業資材である「次世代型植物活性化剤」の研究を行ってきた「横浜バイオテクノロジー株式会社」取締役研究開発部長の小倉里江子さん。
「次世代型植物活性化剤」の研究を軸に、同活性剤の“原石”を探し出すための探索・評価をメインのサービスとして展開している最先端企業の女性研究者は、なぜこの道を志し、起業したのか。なぜ、勉強が得意ではなく、起業する意志もなかった彼女が現在に至ったのか…?
横浜バイオテクノロジー株式会社のある横浜国立大学を訪ねた。
“三匹のおっさん”との出会いがなければ、起業することはなかった
「洋服は好きな方ですが、普段はジーンズにTシャツ姿で研究をしているので、親しい友人からは“起業して小ぎれいになったね”と、よく言われます。実際、人に会う機会も増えたことで、多少なりとも意識はしています」
語り口は論理的だが、世間で言う、いわゆる“リケジョ(理系女子)”のイメージとは少し違う第一印象。出会いの大切さ、コミュニケーションの必要性を説くあたりも従来の研究者にはあまり見られない柔らかさを感じた。
「起業までの道のりを振り返ると、本当に人に恵まれていると実感します。私は“三匹のおっさん”と勝手に呼んでいるのですが(笑)。現在、弊社の代表取締役社長を務める小澤重夫、取締役企画担当の梅野匡俊、そして横浜国立大学の恩師でもある取締役CTO、平塚和之との出会いがなければ起業することができなかったと思いますね」
ちなみに“三匹のおっさん”とは、図書館戦争などで知られる作家、有川浩氏の同名小説からヒントを得た、敬意と親しみを込めた愛称である。
勉強よりも実験が大好き! 理屈よりも感覚の「考える前に動くタイプ」
小倉さんが起業を思い立ったのは5年ほど前。東京農業大学卒業後、2009年に横浜国立大学大学院へと進み、遺伝子組換え技術や植物の免疫メカニズムを解明する研究を行っていた同大環境情報研究院、平塚和之教授のもとで、日々実験に明け暮れていた頃だった。
「高校時代は、生物の授業で教わった減数分裂すら理解できませんでした。ですが学んでいくうちに、その途中で「乗換え」が起こることで、さらに爆発的な遺伝的多様性を生んでいる、生物の合理的な仕組みを知って感動したんです(※1)」
そして「もともと勉強は得意ではないのに(笑)」東京農業大学へ進学。
「ちょうどその頃、遺伝子組換え作物が商業栽培された時期だったこともあり、音楽の野外フェスやイベントなどに行くと、盛んに“non-GM(非遺伝子組換え)”が叫ばれていました。また同時期にカルタヘナ議定書(※2)が採択されたこともあって、食の安全に注目が集まっていました。『GM(遺伝子組換え)とは、農薬とは一体なんだ? 良いのか悪いのか判断するには技術が必要だ』と勝手に思い込んで(笑)、先の横浜国立大学、平塚教授のもとへと進みました。まさに私自身が興味を持ったことが学べる場だったので“ここしかない!”と思ったんです」
※1…父方と母方に由来する同等の染色体「相同染色体」が「乗換え」を起こすことで、染色体上のDNAがシャッフルされて、より多様な遺伝子を持った配偶子を作り出すことができ、受精卵一つ一つが特別な遺伝子セットを持つ。
※2…遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律。
理屈よりも感覚の「考える前に動くタイプ」。ただ、研究員としていくら技術を学んだところで「良いのか悪いのか」という疑問は解決しない…。
「悶々としている時に、分野は違いますが、同期の友人や教授との出会いが道を切り拓いてくれたんです。彼らは、リスクの物差しとなる“リスク評価”というものがあることを教えてくれました。話せば長くなるのですが、要はゼロリスクというものはあり得ない。いつもリスクとベネフィットのバランスでいろんな選択をしている。農薬も遺伝子組換え作物も“リスク評価を経て流通する”ということを知ることができました」
社会需要に貢献したい…「何がわからないのかがわからない」からのスタート
しかし、次なる課題が小倉さんの目の前に立ちはだかる。社会需要に貢献したい気持ちと現実社会とのギャップ、ジレンマに陥ったのだ。
「今度は、“受け入れられないリスクの水準とは何だ?”という議論になるのですが…それは時代や社会、文化的習慣の中で育まれるものであり、自然現象を解き明かすようには決められない。つまり、リスクの水準とは社会の在りようによって絶えず変化していくもの。それを決めるのはその時代に生きる人々の価値観だということを学びました」
社会需要に貢献するため、ノーベル賞を受賞できるような研究を続けるという選択やNPO法人設立という選択もあった。
「さすがにノーベル賞は現実的ではない(笑)。また、NPOも自分の性格的にちょっと違う気がする。それで“社会の役に立っていることを示すことができれば少しは社会需要に貢献できるのでは?”との思いから、起業を思い立ちました。ビジネスのもっとも重要な指標とは何か? を考えた時、“利益があること・利益を上げること”こそが、社会に必要とされることなのではと」
とはいえ、実際に起業するまでには、さまざま困難が待ち受けていた。
「今も常々“暗黒時代”なんですが(笑)、ドクター(博士号)を取って以降、27〜28歳までずっと研究だけしてきたので世の中のことなんて全然わからない。まず、何をどうすればいいのか、何がわからないのかがわからない…。さらには、自分たちで良いものを開発してライセンスアウト(※3)するような研究・開発型の企業を目指したいと考えていましたが、各方面でものの見事に一蹴されまして…。その時に助け船を出してくださったのが、先ほどの“三匹のおっさんたち”でした」
どうやって困難を乗り越えたのか? そう問われても「目の前の課題を一つ一つ必死にやってきただけで、自分自身ではわからない」という。
「ただ唯一、意識してやったことは“自分がやりたいこと、悩んでいることを全部オープンにする”ということでした。すると、三匹のおっさんたちが問題点をサジェスチョンしてくださって、『じゃあ、サービスの方がいいんじゃないの?』と。そこから経営の何たるかもわからない私をサポートしていただいています。まだまだ模索中で、目の前が薄暗いことには変わりません。でも、それがまた楽しくもありますね」
※3…自社で取得した特許権やノウハウ等を他社に売却したり、使用を許諾したりすること。
独自の技術を確立するも、「世間の認知度はまだまだ低い」
かくして2014年に「横浜バイオテクノロジー株式会社」を設立。翌年よりサービスを開始した。ちなみに、同社が主軸としている「次世代型植物活性化剤」とは、人で言うところのトクホ(特定保健用食品)を含む保健機能食品に当たる農業資材。植物のいわゆる免疫力を高めることで、カビやウィルス、病害虫や雑草などの生物的ストレスに加え乾燥や高温・低温などの非生物的ストレスから植物を保護する。植物は常にこれらのストレスにさらされており、ストレスによる作物の収量損失は80%にものぼるのだそう。
「従来は、これらのストレスを軽減するために農薬が活用されてきたのですが、近年では薬剤耐性病害虫(薬剤に耐性を持つ病害虫)が発生し、農薬が効かなくなるという問題が深刻化しています。そこで弊社が着目したのが、病害虫が感染すると抗菌タンパク質を作ったり、細胞壁を厚くして、それ以上の侵入を防いだりなど複合的な効果を持った次世代型植物活性化剤でした。環境にも優しい、文字どおり“次世代の”農業資材だと考えています」
植物が本来持っているストレス耐性を増強することで、植物をさまざまなストレスから保護する次世代型植物活性化剤は、農薬とは異なり、菌や虫を殺すことがないため薬剤耐性病害虫の発生を抑えることも可能だ。ところが、この次世代の農業資材の探索・評価は技術的な難易度が高く、時間と手間を要するため、世界的にみても4剤しか存在しない。
そこで横浜国立大学平塚研究室では、ホタルが光る仕組みを利用し短期間で高精度に探索・評価が可能な独自の技術を確立。「横浜バイオテクノロジー株式会社」として、この技術を次世代型植物活性化剤の開発を目指す各種メーカーに提供するサービスに着手した。
「この技術を用い、植物を保護する新しい物質を多数発見してきましたが、世の中には、まだ評価ができていないだけで、こうした可能性のある物質が数多く眠っていると思います。農薬化学、医薬品、化粧品、飲料品といった各種メーカーが持っている化合物、天然物、抽出物といったユニークな物質と、当社の探索・評価技術が融合することで、より魅力のある次世代型植物活性化剤の開発に貢献していきたいと考えています」
サービス開始から4年目。顧客であるメーカー側は、低コストかつ短期間で自社が持つ物質の用途開発ができるようになり、その用途開発した物質によって新規事業の開拓、農業事業への参入などが可能になった。だが、世間の認知度はまだまだ低いと感じる。
「植物のストレスが減少することで収穫量が増えること、既存の化学農薬と次世代型植物活性化剤、AIやIoTを併用することで環境への負荷が低減すること、それによって持続的な農業が可能になるなど、多くの恩恵があるということを、かみ砕いてお伝えすることが私のミッションと考えます。ただ、一般の方にはなかなか理解していただけない、研究分野の込み入った話をどう伝えていくかは今でも苦心するところです」
「一人じゃなかったから、ここまで来られた」“女性初”横浜ビジネスグランプリ2019最優秀賞を受賞
そうした紆余曲折がありながらも2019年2月末、横浜ランドマークホールにて開催された「横浜ビジネスグランプリ2019」((公財)横浜企業経営支援財団主催、横浜市経済局共催)において、横浜ビジネスグランプリ2019最優秀賞を受賞したことは大きな自信となった。
「次世代型植物活性化剤の探索・評価サービス」というテーマで、さまざまな企業と大学の研究成果をつなぐビジネスの提案を行い、全国から応募のあった一般部門82件、学生部門35件の中からファイナルに進出。勝ち残った10名のファイナリストの一人としてプレゼンテーションを行った結果、女性初の栄えある最優秀賞を受賞した。
「次世代型植物活性化剤のニーズなんて最初は誰も教えてくれないし、“需要のないことをやるな”という方もいらっしゃいました。性格的に気にしない方ですが、“女性だから…”という偏見もあったかもしれません。そういう暗中模索の中で自分を俯瞰して見ることのできない日々も長かった。でも、一人じゃなかったから、ここまで来られた。私の唯一の強みである…と勝手に思っているのですが(笑)、人との“出会い力”に恵まれたと思います。起業後も、財務関係・法務関係含め、もともと経営畑にいた三匹のおっさんたちには大いに助けていただきました。極端な話、名刺の渡し方から苦手な営業前のスモールトークまで、すべて教わりましたからね(笑)」
恥ずかしがらずに、“わからないことはわからない”と言うことが大事
小倉さんの人柄、キャラクターもあるだろう。何より真摯に研究・実験に向かう姿に、心打たれた人もいるはずだ。「横浜ビジネスグランプリ」とは、新たな価値を創造するような製品・サービスの提供を目指す起業家やベンチャーを発掘するべく、横浜での起業や新規事業展開に挑戦するビジネスプランを全国から募集し審査するビジネスプランコンテスト。今回で21回目となるが、後進の起業家に何かメッセージ・アドバイスはあるだろうか。
「恥ずかしがらずに、“できないことはできない。わからないことはわからない”と言うこと。私自身、年齢を重ねて思うのは、自分をさらけ出せる人が困っていると、何とかして助けてあげたいということ。ですから、これから起業を志す若い人に何か言えるとすれば、何事もオープンに、コミュニケーションを大切にするということじゃないでしょうか」
目下の目的は「研究成果と社会をつなぐ仕組みを作る」こと。経営に参画する今も「とにかく実験が大好き」で「研究成果が本当に使えるのか?試してみたい」と未来を見つめる彼女の夢は果てしない。
「まだまだ先の話ですが、今後は起業当初に考えていたように、自社で見つけた次世代型植物活性化剤を開発して、ライセンスアウトすることでビジネスにしていきたいと考えています。BtoB(法人顧客向けのビジネス)の受託試験サービス事業で、すでに9社・26件の実績があるので、将来的には、この探索・評価技術を世界標準にするための挑戦も行っていきたいです。そして、ゆくゆくは“女性起業家”という表現もなくなり、取材で私を取り上げること自体もう古いという世の中になればいいなと思います」
【プロフィール】
小倉 里江子氏
横浜バイオテクノロジー株式会社 取締役研究開発部長
2009年、横浜国立大学大学院環境情報学府環境生命学専攻博士課程修了。博士(環境学)。
同大学産学連携研究員を経て、2014年8月に横浜バイオテクノロジー株式会社の設立に参画し、2018年9月から取締役研究開発部長に就任。植物の遺伝子発現モニタリング技術を基盤として、各種生理活性物質の探索・評価を受託するサービスを展開している。
【取材】
2019年6月
インタビュアー・執筆/橋本達典
編集/馬場郁夫(株式会社ウィルパートナーズ)